もう一つの日記
「直治の日記」番外編
〜もう一つの話〜
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4.困惑のパレード |
「パレード、見なくてもいいのか?」 目の前の少年は、ぼそっと呟くように言った。 「ん、そうね――」 実咲は両手でもったグラスを見つめながら、曖昧に答える。 彼は、特に返事を促すでもなく、アイスコーヒーに口をつけた。 時間は、手にすくった水のように流れ落ちて、彼女がふと我に返るころには、周りが赤く染まっていた。 今、夏の日差しはすっかり身を潜め、代わりにきらびやかな灯りが辺りを照らしている。 「良則君こそ、良かったの?せっかく皆で遊びに来てたのに」 聞くのは野暮だと思いながらも、実咲はずっと我慢していた台詞を口にした。 「ん?ああ、いいんだよ、これで。今日は日中遊びまわってたし、2人の思い出も欲しいだろうし」 いくらカップルが2組だからって、そこまで気にすることはないと思ったが、口にはできなかった。 正直なところ、パレード前に解散しようという良則の提案はありがたかったから。 観覧車を出て皆と合流した後(そういえば、どうしてあんなに簡単に再会できたのだろう?)、どんな会話をして、何に乗ったかもうろ覚えだった。 自分は、笑っていただろうか。 それとも、しおらしく黙っていたのだろうか。 「ねぇ。私、今どんな顔してる?」 良則は怪訝な顔をして、実咲を見つめる。 「――疲れた顔、かな」 「そっか」 おっとりとした彼の台詞はあまりにも素直で、彼女は思わず笑ってしまった。 しかし、良則は笑わず、実咲をなおもじっと見る。 「実咲さんってさ」 「ん?」 「泣いたこと、ある?」 唐突な台詞に、実咲は首を傾げながらも、自分の記憶をたどる。 「あるよ。けっこう前だけど。……そうね、こっちに来てからは、ないかも」 言いながらも、彼女は違和感を覚えた。 そうだ、確かに。 「実咲」は、泣いたことは、ない。 「ふぅん――」 良則は、納得したのかしていないのか、気の抜けたようなあいづちを打った。 「それが、どうかしたの?」 実咲の声に、彼は慌てて口を開く。 「あ、ごめん。単なる俺の思い込み。実咲さんが泣いたり怒ったりするところ、見たことがなかったから」 「それはたまたまじゃないかな?私は、誰かが怒鳴り散らすところとか、泣き叫ぶところなんて、ほとんど覚えがないもの」 もっとも、それは実咲にだけ当てはまることなのかもしれないけれど。 あの男のあの姿に比べれば。 どんな感情だって、可愛いものだ。 少し、心拍数が上がる。 深呼吸。 「そうだね。だけど――」 良則は、もどかしそうに頭をかいた。 「何て言うか、すっげえ無理してるように見える」 「そんなこと、ないよ」 首を振る実咲に、彼はため息をついて視線を横に向ける。 賑やかな、祭りの音。 色とりどりの、光。 それらは離れて見てなお、とても幻想的で。 そう、それはつまり――他所事だ。 「俺の親、歯医者でさ」 話題が変わったのかと実咲は思ったが、良則の顔から判断するにそうでもなさそうだ。彼はテーブルの上のグラスをとんとんとリズムをとるように叩いて、それから話を続ける。 「小さい頃はよく、待合室とかに顔出してたんだけど…ああ、診療室に入ってこっぴどくしかられて、それで泣いたこともあったっけ。いや、ごめん。それは関係ないんだ。その待合室でさ、時々、ほんと、辛そうな顔をしてる人がいるんだよ。子供だけじゃなくて、大人も」 「――うん、そうね。命にすぐには関わらなくても、痛いことには変わりないから」 「それで、一緒にいたお袋に尋ねたことがあったんだ。どうして、皆怖い顔してるのって。そうしたら、歯が痛いからよって返事が帰ってきた。でも、俺にはどうして歯が痛くなるのか分からなかった」 「ああ、虫歯になったことがなかったのね」 「そう。教育のたまものなのか、ラッキーなのか分からんけど、俺は虫歯になったことがない。んで、それはともかく。歯が痛む理由をやっぱり聞いたわけ。そしたら、『我慢できるからって、放っておいたからよ』って、お袋は俺に耳打ちした」 「……そう」 「俺は『病は気から』って言葉はあまり信じてない。痛かったらもちろん言ったほうがいいし、辛くなくたって、身体がもたないときも、ある」 そこまで一気に言い切って、良則は氷の解けたアイスコーヒーを飲み干した。 「前フリが長かったけど、もし、何かあったら――それが大したことじゃなくたって、口にしたほうがいいと思ってる」 実咲は、小さく息を吐いて、彼を見つめる。 「それで、誰かに言ったところで、いいことがあるの?」 自分の都合を他人に押し付けて、その人を困らせて。 慈善からは程遠い。 さっきだって、無理に近づこうとして、 健次を困らせ、円花を傷つけた。……もちろん、彼女が実咲を全く気にも留めてない可能性もあるけれども。 しかし良則は、無邪気な微笑みで頷いた。 「少なくとも、その人が何かサインを出してるんだってことが分かる。聞いた人は同じことで悩んだことがあるかもしれないし、そうしたら治療法だって分かるかもしれない。別に取り越し苦労だって良いよ。それで腹を立てる人がいたら、近づかなければいいだけの話」 だろ?と実咲に問う声に、彼女は返事をせずにうつむいた。 理解は出来る。 でも、それは理屈でのことだ。 自分は、何も感じていない。 それは異常がないこととイコールだろうか。 「わからない」 誰にも届かない声で、そう呟く。 観覧車の入り口で待っていた円花の姿を、何故だかふと思い出す。 彼女は健次を睨むことも、実咲を怒鳴りつけることもせずに、 ただ、「じゃあ、行こう」と一言残して背中を向けた。 覚悟はしていたのだ。 たとえ、彼にどんなことをされても。 彼女に、平手打ちを食らおうとも。 信頼できる友人に、そっぽを向かれても。 健次と触れ合えるなら、 彼の心の一部に残るのなら、それでよかった。 それなのに、 結局、そのいずれも起こらず、誰にも触れられないままで。 痛みはないけれど。 それは例えば嫌われ者の人間よりも、 自分がどうでもいい存在である証左なのかも、しれない。 しかし。それでもやはり。 「健次君が、好きだったの」 優しい兄とも、頼れるあの人とも違う。 そばにいるだけで、自分でなくなってしまうような、例えようのない感覚。 こんな感情があるなんて初めて知って。 だから、ひたすらに、がむしゃらに追いかけて。 「円花さんと健次君が付き合ってるのを知っていて、でも近づかずにはいられなくて」 良則は、何も言わずに、実咲を見つめていた。 実咲は、懺悔をするように、言葉を拾い集める。 「さっきも、私が無理に観覧車に連れて行ったの。馬鹿だよね、結果は分かりきってて、皆に迷惑かけて。なのに、どうしてなんだろ」 夜空の黒を塗りつぶさんばかりに、花火が盛大に上がる。 「あきらめられないよ――」 覚えてしまった感情が、切り離そうとするたびに、呪文のように絡みつく。 華やかな旋律が、 夏の匂いが、 辺りを夢色に演出して、それが余計に、今の実咲には酷に感じた。 「――いいんじゃないの?あきらめなくたって」 無責任なくらい、あっけらかんとした返事。 実咲は顔をあげて、目を瞬かせた。 「円花から奪い取れって言うつもりはないけど、どうしようもないんだからさ。無理をするから、余計辛いんじゃない?」 「分かってる、けど」 「じゃあ、全然大したことないよ」 良則にとってはそうかもしれない。しかし、実咲にとっては重要なことなのだ。 だからこそ、誰にも言わずにいたというのに。 「……他人事だと思って」 「他人事なのは確かだなぁ」 「自分で話をふっておいて、それ?どういうこと?」 さぁ、と言って首を傾げる良則が腹立たしい。 「別に、そんなに好きなら、もう少し待ってもいいんじゃないかと思うだけ。ひょっとしたら、いつかはあいつらも別れるかもよ?」 その台詞は、 自分に対しても、 円花に対しても、 健次に対しても、失礼だと思った。 そう感じた次の瞬間には、 テーブルに乗り出して、破裂音のような盛大な音を目の前で響かせていた。 ふるふると身体を震わせる実咲に向かって、良則は驚いたように、しかしどこか安心したように口を開く。 「――そうやってたまには怒ったほうがいいよ。少しはすっきりするから」 「馬鹿に、しない、で――」 再び手を振り上げて良則の頬を叩こうとしたが、避けようともせずに目をつむる彼を見て、急に頭が冷えた。 こんなにムキになってしまった自分が、不意に怖くなる。 言葉に詰まって、実咲は椅子に座りなおしてうつむいた。 「……ごめん。本当は怒らせるつもりなんてなかったんだ。これでも励ましてるつもりだったんだぜ」 良則は困ったように、小さな声で言った。 それにしても無神経だ、と実咲は思ったけれど。 これが彼なりのやり方なんだとも、妙に納得してしまう。 実咲は、上目遣いに彼を睨みつけた。 「短気な女の子が好み?」 「ま、まさか。そんなわけないよ」 彼女の台詞に、良則はぶんぶんと首を振る。 その狼狽する様子がおかしくて、実咲は笑いをかみ殺す。 「もしこれで私が凶暴になったら、良則君のせいだからね」 「うわぁ……」 首と肩をがっくりと落とす彼の姿に思わず吹き出した。 「――叩いてごめんなさい。ありがとう」 良則の左の頬を、彼女はそっと撫でた。 |
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